安倍晋三官房長官の母親、安倍洋子さんは昭和3年(1928年)6月14日、商工省の官僚、岸信介の長女として東京で生まれた。父親が渡米中に誕生したので、太平洋の洋を名前につけた。昭和26年(1951年)5月5日、毎日新聞政治部の安倍晋太郎記者と結婚。見合い結婚であった。翌27年4月28日、父親の公職追放が解除された。奇しくも日米安保条約発効の日であった。
13年前、安倍洋子夫人にインタビューした。そのなかから、いくつかを紹介していきたい(『正論』平成5年8月号掲載)。インタビューは、つぎのようなやりとりから始まった。
――安倍晋太郎さんとのご縁は、どういうことでしたか。
「父は、毎日新聞政治部の長坂(慶一)さんなどに、わたしの結婚相手をさがしてくれるようにお願いしていたようです。それで長坂さんが、主人を推薦して下さいました。主人は、山口県の出身ですし、お父さん(安倍寛)は戦前の代議士で父も出会ったことがあります。そんなことから、『おまえ、どうだ』ということになったようでございます」
「渋谷の南平台のレストランでございます。このお店をやっていた橋口さんという方は、以前、父の叔父にあたる松岡洋右さん(元外相)のコックでした。南平台にはよほど縁があるようで、このレストランがなくなってから、隣の土地に父は家を建てました」
60年安保のとき、メディアは、岸首相をまるで極悪人のようなイメージで報じ、それに刺激されて反対運動もエスカレートしていった。
「当時、わたしたちは、代沢の佐藤の叔父(栄作)の家のすぐそばに住んでいたんですけれど、心配で毎日のように南平台を訪ね、そのまま泊り込むこともありました。あの家は、父が、『ウナギの寝床みたいだ』と申しておりましたけれど、細長い家でございました。門から玄関までだいぶ距離があったのが幸いして、(投石が)家までは届かないんです」
――岸首相は毎日、自宅に帰ってきましたか。
「はい、帰ってきました。裏門がございましてね、そこは細い道で、ちょっとわからなかったんですね。あ、こんなところに裏門があるのか、というようなところにございましたから、わたしたちも、そこから出入りしていました」
デモ隊に囲まれて家族はハラハラし、夜も眠れぬ状態であったのに、岸首相には余裕があった。「デモに参加している人たちは、必ずしも自分の意思で参加しているのではない」といって、縁側からデモ隊を眺めていたという。
「わたしのこどもたちが、外の声をまねて、『アンポ、ハンターイ』といって、部屋を駆け回ります。わたしが、『アンポ、サンセイ、といいなさい』と叱っているのを、ニコニコ笑ってみていました。父のあの余裕は、いま思いますと、自分の判断の正しさに確信をもっていたからだと思います」
<きょう・あす・あさって>
9月21日 根津神社大祭。
中目黒GTアートガイドその3
フランスのアーティスト、ジャン=フランソワ・ブランは、光を使った作品で、空間全体をアート化するのが得意とか。下段の地下1階広場では、床面のガラスブロックが、日没とともに光を放って幻想的な雰囲気をかもしだします。「百の月の池」と呼ばれています。




by tohrusan
この件は、鳩山さんが正しい